水城跡
日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(と ぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国な どに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となりま す。
水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工
の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多
いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。
《大野城市教育委員会ホームページより》
うららかな春、水城跡では菜の花と桜が咲き乱れます。身近な歴史と文化にふれてみませんか?
詳しい解説はは下記のホームページをご覧下さい。
大野城市教育委員会「水城跡」ホームページ
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/edu/kyoiku/rekishi/shitei/mizukiato.html
画像引用
ことまち写真館「太宰府・水城」ホームページ
http://kotomachi.exblog.jp/6330325/
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